昭和46年7月4日 特別奉修委員会
入力者 大坪れい
( ? )どうぞ、( ? )助けて下さい、私の命をかえて、でも助けて下さいと( ? )、その(?)を助けてお前が死んだらどうなるか。ね、神様からご覧になれば、どっちも同じことだ。(?)自分が、自分の子供が、孫なら孫が可愛いから、孫のために命を捧げる、んなら、神様の目から見られるなら、孫も可愛いばってん、(?)も可愛いというわけです。そういう、つまらん願いをする者があるという教えて、教えて頂いておりますね。
けれども、昨日私は、おおもとちょうの( ? )、大変な( ? )だったそうですね、まだ、にっせんのちょうの戦いがある前に、( ? ) ね、( ? )神様から頂いておられるように、神の為に命捧げてくれと仰る、ね、いうなら、神の為に命を捧げてくれりゃ~( ? )。だからね、自分の子供んためやら、孫のためやらに命を捧げたら、神様の目からご覧になった同じこと。お前が死んでから、孫が助かったっちゃ、同じこっちゃない。その神の為に命を捧げるといや~殺しはせん。
ここんところがですね、( ? )信心と、いわゆる信心が、生活の信心のためにあるといわれる、そういう信心です、ね、お互いが生活のために信心がある。助けてもらえるために神様があるとね、そういう事になってくる。ね、え~夕べの御理解に、聞いて頂いたんですけれどもね、夕べの。え~宗教は多いが、信仰者は少ない。信仰に対する、教養的感心はあるが、信仰的(?)をする人がない、少ない。もうだから、ね、宗教と、例えば金光様というと、まぁたくさんな宗教がありますけれどもね、本当のその、(?)信仰しておる人はない。
ただ、参って拝んで、頼みよってだけのこと、ね、それが信仰にまでなからないけん。宗教に対する教養的感心は、合楽の人たちなんか、この宗教的教養なんかは、ずいぶん身に付いていきよってすね。願い分かって(色んなこと?)。そして、「ここはどう頂いたらよいでしょうか」ち、それはこ~がよかばいち、あ~そうですかち、分かるのは、それは本当の( ? )。ね、今日、( ? さん)、金光様の具合が悪かったことに対して、ね、( ? )だったら良いだろうかと、そりゃ~ここ( ? )、あ~そうですかて、分かっただけのことであってね、本当にね、信仰的きえをする。それがどういうことかというとね、神様へもうきえをしてしまうということは、命を捧げるということ。ね、
例えば、学院入学いたしますと、みんながみんな、必ず一生を御道のために捧げますという、いわば、誓いをさせられます。ね、だからそういう先生がおったら、人はどんどん助かる。けれども、自分が助からなならんから、自分の( ? )からの先生ですから、おかげにならんとです。本当のきえ、ここではどういうことかというと、親先生にきえをするということ。いかにも、きえをするように、きえしておるようにいうておっても、いっちょんきえしとらん。でここに( ? )、ね、お互いがね、どうぞおかげを下さい、自分の命を捧げるといったような、つまらん信心がいくら白熱的にでけたところで、それじゃつまらん。ね、神様に命を捧げるというのは、神様( ? )という働きがある、ね、それは、本当にその、教祖、宗祖、ここでいうなら親先生に、本当のきえがでけた時に、もう命までも捧げたいというのが、きえですからね、もう絶対におかげが頂けるわけですね。